ロバートジョンソンの軌跡
ある本の一部にこんな見出しがありました。
「ホット・スプリングスのスターはいまだにロバート・ジョンソンである」
という小さい記事が1937年7月
ラインスタンプ ⇒ ブルースネコ
ロバートの生存中にイギリスとアメリカの両方で発表されたらしく、それからブルース研究家がこぞってロバート・ジョンソンの調査を始めました。
しかしその調査は思ったほど成果がなくロバートのことはよくわからなかったようです。
ホットスプリングス(Hot Springs)とは
- アメリカ合衆国アーカーンソー州中央部にある都市で、ロバートがいた1930年代は約2万人が生活していました。(2000年代統計約3万人)
- ホットスプリングスという市名が示す通り、市は温泉で知られていました。
- しかし温泉はもともとは湯治(とうじ)「温泉に入って療養する」のためのもので当時はにぎわっていたそうですが、第2次世界大戦後に湯治は下火になってしまったそうです。
- ロバートもひょっとしたら利用したのでしょうか?いやいや、その当時の黒人の扱いは病人になっても治療が受けられないほどの仕打ちを受けられていた時代なのでそんな贅沢は出来なかったと思われます。白人が利用しているのを恨めしそうに見ていたに違いまりません。
- その頃ホットスプリングの街にはギャングが広まっていました。あのシカゴで有名な暗黒街のボス「アル・カポネ」はホットスプリングの高級ホテルであったアーリントン・ホテルを潜伏先の1つにしていました。
- また、ニューヨークを追われたオウニー・マドゥンも1935年にホットスプリングにたどり着いてこの地にカジノを備えたホテル・アーカンソー立てました。その後もトーマス・デューイに追われたラッキー・ルチアーノがこの地に逃げのびてマドゥンにかくまわれるなど全米の「お尋ねもの」が次々とホットスプリングスに流れついた年代でもあります。
「オウニー・マドゥン」とは
- アーカンソー州ホットスプリングスにカジノを備えた「ホテル・アーカンソー」を開き全国の引退したギャングの世話をしました。1936年トーマス・デューイに追われたラッキー・ルチアーノを一時匿い弁護士まで雇いました。
- ホットスプリングス市長はレオ・パトリック・マクラフリンにわいろを贈り八百長競馬など賭博や売春組織を運営していました。
- また慈善事業ま緒こない1943年にはアメリカの市民権も手に入れ1940年代は地元の名士として名が通っていたということです。
- 生涯を通じて豪快な生活を好み高価なスーツを着て複数の女性を引き連れていました。
- しかし若いころに体中に受けた銃創で障害苦しんでいたそうです。1930年代には当局よりマークされて1960年代前半マクラレン組織犯罪委員会の追及を受けましたが1965年肺気腫で死去しました。
- 300万ドルの資産を残してホットスプリングスのグリーンウッド墓地に2001年に100歳で死去した妻アグネスとともに埋葬されているそうです。
それからロバートが死んで2年後1939年にブルースの研究者である「アラン・ローマックス」がロバートの調査を始めていることに「マック・マコーミック」が気がつきました。