アラン・ローマックス(Alan Lomax)について
「ローマックスがいなければポピュラー音楽の歴史は異なっていた」。20世紀半ば、アメリカのフォーク、ブルース、ジャズの発展に決定的な影響を及ぼしたと言われている人物です。
現在のポピュラーミュージックの原点でもあるブルースの軌跡をアラン・ローマックスの録音収集されたCDの音源とともにたどります。
- アラン・ローマックスは1941年頃にサン・ハウスをロビンスンヴィルの真北レイク・コーモラントで発見し取材をした第一人者です。
- 主にアメリカを中心とした民俗音楽の録音収集・映像記録・研究家、またアメリカ議会図書館のディレクターでもあります。
- コンサートやラジオ番組の制作も携わり、フォーク、ブルースなどジャンルを問わず幅広く音楽の録音収集をしていました。
ラインスタンプ→Blues Cat
略歴
- 1915年(大正4年)1月31日 - ジョン・ローマックスの息子としてアメリカで四人兄弟の第三子として誕生。父親は1915年(大正4年)テキサス州オースティンに民俗音楽研究家ジョン・ローマックス(en:John A. Lomax)
- 小児期は虚弱体質で小学校にはあまり行けなかったようです。
- ダラスのハイスクールで学んでいましたが、1930年、コネチカット州の高校を15歳で卒業。
- その後テキサス大学オースティン校入学しました。ニーチェを読み哲学に興味を持つなどして学生生活を過ごし学校新聞に幾つかのコラムを書いています。
- 黒人アーティストのレコード収集を始め、黒人経営のナイトクラブに通う。
- しかし17歳のとき、大学を休学して父親の民謡収集を手伝い、1935年からは父親と離れ収集活動を始めるようになります。のちに復学していますが・・・
- 1937年、在学中に最初の結婚、夫婦で民謡収集を行っています。12年の結婚生活して、一人娘(en:Anna Lomax Wood)を授かります。
- 2002年(平成14年)7月19日 - フロリダ州サラソタの養護施設にて70年の歳月を音楽の調査に捧げ87歳で死去しました。
- 家族・親族:ウィリアム・ローマックス - 18世紀にイングランドから移住。
みすず書房
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目次
序文 ロナルド・D・コーエン
第I部 1934‐1950年 初期の収集時代
序 エド・カーン
第1章 南部黒人の罪深き歌
第2章 ハイチへの旅
第3章 身近なところにある音楽
第4章 アメリカの民衆の歌
第5章 『我らが歌の国』序文
第6章 テキサスの14の伝統的なスペインの歌
第7章 リールと作業歌
第8章 レッドフォード氏とTVA
第9章 アメリカがアメリカの物語を歌う
第10章 ルーズヴェルト時代の民俗音楽
第II部 1950年代 ワールド・ミュージック
序 アンドリュー・L・ケイ、マシュー・バートン
第11章 多くの言語による諸部族の声
第12章 フォークロアを利用できるようにする
第13章 ガリシアの音楽
第14章 イタリアの民俗音楽
第15章 イタリアの民謡
第16章 民謡の様式――民謡研究へのシステマティックなアプローチに関する覚え書き
第17章 スキッフル――なぜこんなに流行っているのか、そしてどこに行こうとしているのか
第18章 民謡の様式
第19章 フォークソングの狩人の冒険物語
第III部 フォーク・リヴァイヴァル(1960年代)
序 ロナルド・D・コーエン
第20章 「フォーク族」――そして彼らが歌う歌
第21章 レッドベリーの歌
第22章 ブルーグラスの背景、熱を帯びる民俗音楽
第23章 民俗音楽が分かるようになる
第24章 民謡の伝統は私たちのまわりにある
第25章 民謡の価値と美
第IV部 計量音楽学と文化の公平性――学究的な時期
序 ゲージ・エイヴリル
第26章 歌の構造と社会の構造
第27章 計量舞踊学――映像における通文化的類型研究の方法
第28章 文化の公平性を求めて
第29章 映画、学問、文化の復活
第V部 晩年の文章
序 マシュー・バートン
第30章 グローバル・ジュークボックス
第31章 『ミスター・ジェリー・ロール』1993年版への序文
第32章 南部の音
第33章 輪の中の鳶色の少女
第34章 K・D・ニューマン『歌なしにはいられない――ジェニー・デヴリン(1865‐1952)の生涯と歌』への序文
CD付き
残念ながらアラン・ローマックスはロバート・ジョンソンの死後に調査を始めているため音源の収集には至っておらず詳しい内容はつかめていません。
同時期にロバートの調査にかかわった人物がいました。2人目は、「マック・マコーミック」です。
Blues Cat ラインスタンプ
マック・マコーミックについて
- ロバート「マック」マコーミック(1930年8月3日 〜 2015年11月18日)、ピッツバーグ(ペンシルバニア)に生まれました。アメリカの音楽学者と民俗学者でした。
- 幼少時代親の仕事の関係上高校を中退していますが、のちに電気技術者やコック、カーニバル労働者、タクシー運転手などをして働き生活しています。
- 運命を変える1946年にニューオリンズでレコード店のオーナーのオリンブラックストンに出会いジャズなどの研究をして編集するのを手伝い始めました。そして1949年ダウン・ビートのテキサス通信員になりました。
タウン・ビートはアメリカの音楽雑誌の名前でジャズやブルースを専門誌に扱う1934年、イリノイ州シカゴで創刊された会社。(ダウンビートとは「ビート・ワン」、あるいは音楽の第一拍目のこと。)
- それからブルースに関心を持ち出し旅をしながら不法入国したブルース・ミュージシャンの起源を研究し、民族音楽伝統を学びました。
- 1950年代後期にマンス・リプスコムやライトニン・ホピキンス、を発見し、記録しています。そして残念ながら「ロバート・ジョンソン」と「ヘンリー・トーマス」は死後に調査していました。
- ライトニン・ホプキンスにあたっては1965年のLightnin' Hopkins - Live At Newportでプロデューースしています。
彼は一緒にこれまで行わなかった一団の元囚人を集めて、ためすがマコーミックは死亡していた多数の雑誌記事とアルバム・ライナーノートを書き残しています。
ロバート・ジョンスンの研究では第1人者です。
- 米国の代表的なブルース研究家でテキサス州ヒューストンに住んでいました。1948年からロバートについて主にフィールド・リサーチを開始ししました。
- 1972年にスミソニアン協会で仕事をしていた時期があったのですがその間も時間があればロバートの研究の為、音楽家を知っていた人々と面談し調査をしていました。
- その集大成である「Biograph Of A Phantom」日本訳「亡霊の伝説」を執筆していましたが、いまだ出版されていません。著作権問題でもめているという噂です。マコーミックは完了しないまま終わらせています。
- 本人は後に「ロバートに対する関心がなくなった」と語っています。著作権問題で嫌になったのでしょうか?このままマコーミックのリサーチは幻のままうもれていくのでしょうか。
- しかし、マック・マコーミックの本が発売直前と思われた少し前に独自の調査とマック・マコーミックへのインタビューによって出されることとなった著書 『Searching for Robert Johnson』は日本語にも翻訳され『ロバート・ジョンスン―伝説的ブルーズマンの生涯 (On music)』として発売されました。